友人が来て、岡山についての話をいくつか聞いた。それを受けて調べたことをせっかくなのでまとめておく。
主に調べたことは、以下の二点。
* 鬼ノ城は誰が作ったか
* 岡山南部の平野部は埋め立て地だった
鬼ノ城は誰が作ったか
自分の考えは、白村江の戦いで大敗した後、防御のために山城を築いたうちのひとつという認識だったが、朝鮮系の城の作りだと聞いたので、調べてみた。
大和朝廷は倭(日本)の防衛のために、対馬~畿内に至る要衝に様々な防御施設を築いている[3]。鬼ノ城は史書に記載が無く、築城年は不明であるが、発掘調査では7世紀後半に築かれたとされている[4]。
また、ちょうど本郷和人の『日本史を疑え』という本に次のようなページがあった。
百済の将軍は日本に逃げてきた人々と思われるので、鬼ノ城も、白村江の戦いで負けた後に当時の朝廷が(百済将軍式のもとに)作ったものと思ってよさそう。
まあ、実際に鬼ノ城を根城にしたのが誰かとか、温羅が誰だったかとかは、また別の検討にする。
岡山南部の平野部は埋め立て地だった
たとえば、早島駅などの地名に、当時は島だったことが残っているとか。
たしかにGoogleマップで見てみると、平野の南の方にも高くなっているところがあり、その間は海だったと言われるとなるほどと思える。
そして、児島湾開拓史に、岡山県平野の南部が海だった頃の様子が描かれているとか。
そうなると、「吉備津」というのは吉備の中心的な港だったのかと妄想が膨らんで調べてみたら、やっぱり同じことを考える人がいた。
知らない土地の古代史や民俗史はやっぱりおもしろいな。